昭和懐かしのシネマ~電気館~

このブログは昭和20年代から平成初めまでの私の映画館見聞録です。

番外編 ドリフターズ承前異聞

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今年の桜2020

 新型コロナウィルスにかかり志村 けんさんが亡くなった。

ご本人もこんな理不尽な不意の死を思いもしなかったと思う。

生涯コントを追求し、「人を笑う事ではなく、人に笑われることをめざした」との言葉を残されたという。

なんという清く潔い人生だったか、頭が下がる。

さて、今から59年前の話になる。ものすごい昔の話だ。1961年だ。

当時18才だった私は早稲田の演劇科に通い、学生劇団の「こだま」に入っていたが、もっぱら通ったのは生演奏のジャズ喫茶だった。

新宿ラ・セーヌ、渋谷テネシー(もしかしたらマリンバ)、池袋ドラム等が私の主な通い詰めた店だった。

亡くなった坂本九や森山加代子、ジエリー藤尾、ミツキー・カーティスなどが出演していて、昼の部と夜の部があったが入れ替え制がなかつたので、一杯のコーヒーで、ねばって両方を見ていりびたっていた。

その中にコミックバンドの「桜井輝夫ドリフターズ」が出演していた。

中でも新宿のラ・セーヌはステージが横に広く5・6人のバンドが出演できたので、ここで見たのだ。昔の歌舞伎町コマ劇場の前映画館ミラノ座の左横にラ・セーヌはあった。

私のお気に入りはそのドリフターズで、中でも、メンバーのポン青木の大ファンだった。

その後、桜井さんはいかりや長介さんにリーダーを譲り、突如アメリカへ行ってしまった。

そして、あの皆が知っているザ・ドリフターズが出来上がり、テレビに出演するようになった。

もともとドリフターズアメリカのバンドで別にコミックバンドではなかった。

だが桜井さんが桜井輝夫ドリフターズというコミックバンドを立ち上げ、ラ・セーヌ等に出演していたのである。

ポン青木はイメージ的には加藤茶のような立ち位置の人だった。

ロツク風の曲の途中で不意に変わって、シンバルを三度笠に見立てて、〽利根ーの、とねの川風ヨシキリの声が‥‥などと膝を折ってOの字にしながら歌い踊る。

これがとてつもなく面白く、その笑いは文字では到底伝わらない。

ジャズ喫茶に入りびたりの私に劇団の先輩が「お前、芝居をやりに来たんじゃないのか?」と何度もいぶかしがれ、怒られた。

それでも私のジャズ喫茶通いはやめられなかった。

次の年62年春に東京にいた父の会社が倒産し、私が父と上京していた妹と3人の生活をバイトで面倒をみるようになった。

当時目黒の雅叙園のお運びで、日給600円を200円ずつ3人で分ける生活が待っていようとは夢にも思わなかった、たった1年の優雅な日々であった。

一寸先は闇は今も変わらない。

ポン・青木のコピーを新劇団自由舞台の打ち上げでやって見せて、爆笑を買い、たまに劇団に来る別役 実さんをして、「すごい(キヤラクターの)奴がこの劇団にはいるんだね」。と大いに喜ばせたものだった。

これが私とドリフターズ承前の異聞の話である。

皆さんの知るドリフターズとは一味違う、まだ物語の始まる前の話である。

志村 けんさんのご冥福をお祈りします。

 

キューブリックの嚆矢とは?

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スパルタカスのカークダグラス

カーク・ダグラスが亡くなった。享年103であったという。カークダグラスといえば、まず「OK牧場の決斗」が思いされるかもしれない。だが、私はスタンリーキューブリックの「スパルタカス」をあげたい。「突撃」でキューブリックと出会ったダグラスは、脚本の事等で喧嘩をしながら造り上げたのが「スパルタカス」で、この壮大な映画は後の「2001年宇宙の旅」に繋がっていく天才のいわば原点となる出発の映画だったのだ。

マイケル・ダグラスは父を超えたか?いいや、二世俳優で親を超えた役者を私は知らない。

 

 

 

 

ひめゆりの塔

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多分小学校5年に見た作品とおもう。公開年度1953年1月とあるので。10歳だろうと思う。電気館は長野県須坂の駅前の映画館で、父の仕事の関係で、小学3年の冬には静岡県清水市(今の静岡市清水区)の三保の松原へ越して、さらに4年には静岡の駒形の団地へ居候していたので、静岡に移って初めて見た映画だと思う。

今井正監督で、水木洋子脚本、津島恵子香川京子岡田英次、藤田 進出演の東映映画である。

残念ながら私は途中で激しい頭痛と、同時に気持ちが悪くなり、映画館の外へでてしまったのを覚えている。映画の中に手で来る戦闘シーンに耐えられなかったのか、単なる生理現象かは定かでない。

当時の映画館は暗闇は勿論のことだが、換気装置がうまく機能していなくて、時々頭が痛くなり、途中で退館することが、多かったように思う。

それでも、絵本以外のフィクショナルなスクリーンを求めて映画館への旅は飽きることがなかった。

この映画はおそらく学校で連れていかれたんだと思う。

親はこんな映画を一緒に見るどころではなく二人で必死に働いていたからである。多分この頃は自主的に選択はしていないと思う。

戦争自体の記憶はないが、戦争というものの怖さを生理的に教えられた映画でもある。

 

エースのジョーよ永遠に

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1955年日活映画です。

 

宍戸錠さんがなくなりました。 確か1955年、私が12歳の頃だったと思います。その頃静岡の映画館で、左さち子さん主演の【女中っ子】が上演され、その公開記念で劇場に左さち子さんと宍戸錠さんがスクリーンの前に立ちました。 それが映画スターという人を見た、おそらく最初の事だったと思います。小学6年生だったと思います。 錠さんはまだあの頬を整形する前の二枚目の青年でした。 後年今から20数年前に、あるパーティーで偶然宍戸さんと会う機会があり、30分ほど立ち話をしました。 初対面で、昔の話を話しかける私に錠さんは快く話してくださり、その後の敵役時代のエースの錠の話にも話は盛り上がりました。 映画が好きで好きでたまらないという感じで、実に謙虚な人柄がにじみ出て心地よいひと時でした。 錠さんはわたしより10年年上です。 あれだけ頑強な方が85歳でなくなられたということはわが身に比べてみれば、頑張っても、あと5年がせいぜいかと思ってしまいます。 あるいはもつと短い中でやりたいことをやりつくしたいとあらためておもうのです。 頬を整形して二枚目から敵役に変身し、また元に戻すという、正に映画に賭けた一生と思えます。 心よりご冥福をお祈りいたします。 石原裕次郎もさることながら、僕たちは小林 旭や宍戸錠そして浅丘ルリ子に育てられたのです。

ターザン映画と鞍馬天狗その2

 

 

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色々と調べてみるとターザン映画は1946年公開の「ターザンと豹女」か1947年公開の「ターザンの怒り」ではないかと思われる。小学2年か3年の頃見たターザン映画に見たのは

家族というものの原型だったのではないかと思われる。そこには父と母がいてボーイという子供がいる。そしてペットよりは随分と格上というか、役に立つチーターという名のチンパンジーがいる。しかも一切の文明的な生活を捨てて、人間として家族として襲い掛かる自然の驚異や、人間社会の悪意に敢然として戦っていく一個の単位こそが家族の原型だよと教えてくれたようだ。

そして、鞍馬天狗はおそらく1951年(昭和26年)の「鞍馬の火祭」か「鞍馬天狗と青銅鬼」だと思われる。

不思議に思えたのはどちらかの結末で、映画のラスト、清水寺かどこかの境内で鞍馬天狗近藤勇が二人で一騎打ちをして、剣を交えている最中に、左右から閉じていく白いスクリーンとともに、終わりというおおきなエンドマークの字が出てきたことだ。

大人になってから勝負でどちらも殺してしまっては、次の映画の続きができないことは分かったが、当時はどうして勝負の決着がつかないまま映画が終わるのか全く分からなかった。子供にとってはそんな終わり方はあり得なかったからである。

二つの映画を同時に見ることで、学校でも家でもおしえてはくれない、貴重な二つのことを学んだ。それは「家族」とは親子で力を合わせて生きていくものだという事と、この世の中には勝ち負けのつかないこともあるのだという、貴重なことを‥‥昭和27年9歳の冬であった。

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冬の公園

子供のころ一番最初に見た映画はジョニー・ワイズミューラー主演の「ターザン」と嵐寛寿郎鞍馬天狗だった。長野県須坂市の駅前の電気館。冬だった。学校が終わってから1里(約4キロ)の道のりを一人で歩いていき、帰りは道の両側にやまのようになった雪道を藁靴を履き、今にもお化けが出そうな気持になりながら、凍えて速足で歩いてすべりながら帰る。今銀幕にいた正義の味方鞍馬天狗もターザンも助けに来てはくれない。

それがわかっていても、毎回その映画館「電気館」に通った。小学2年生、昭和25年頃のことであった。まだ道の端に街灯もない吹雪の雪道を思うととても映画に行くことはものすごい冒険でしかなかった。それが映画と私の出会いだった。本日これまで。

See You again!